奈良公園におけるシカの功罪


奈良女子大学 理学部 生物科学領域 佐藤宏明准教授 提供

 

1.はじめに

 

A.奈良公園の概要

奈良公園は厳密には1960年に都市公園法によって指定された「奈良県立都市公園奈良公園」をさす.しかし一般に奈良公園と呼ぶ場合,春日大社境内や東大寺境内,興福寺境内などの寺社仏閣地,春日山や若草山,御蓋山などの山林部,飛火野や浅茅ケ原,奈良県公会堂敷地などの平坦部園地,そして奈良国立博物館構内からなるおよそ660 haの地域をいう.

奈良公園には千数百年の歴史をもつ寺社仏閣のほか,常緑性のカシやシイが優占し特別天然記念物に指定されている春日山原始林,そして,人の手がほとんど加わらず,シカの採食圧によって維持されている飛火野などのシバ草地がある.奈良公園は,都市に隣接した公園にあって歴史と自然が一体となったきわめて貴重な公園であるといえる.

 

B.奈良公園といえばシカ

2014年夏の調査によると奈良公園には1076頭のシカがいる.一説では江戸時代でも1000頭はいたのではないかといわれ,明治維新と戦中の混乱期を除くと,5001000頭のシカが1000年以上にわたって保護されてきたと推定されている.

奈良公園でのシカの保護は春日大社の創建時に遡る.春日大社は768年,藤原氏の氏神を祭るために鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祭神に招き,建立された.後の言い伝えでは,そのとき武甕槌命は白鹿に乗り,御蓋山に降臨したという.神鹿思想がいつ頃成立したかは不明であるが,藤原行成が1006年に記した日記に「春日社に参拝,鹿に遭う,これ吉祥なり」とあることから,このころには既に神鹿思想が定着していたと考えられている.

神鹿思想はときに行き過ぎ,中世から近世においてはシカを密猟した者が死罪に処されたという記録が散見される.江戸期を通じシカは春日大社や興福寺の権威によって手厚く保護されたが,明治維新においてはその反動により乱獲され,頭数は激減した.1878年,県は春日大社の申し出によりシカの殺傷禁止区域を設定した.その後,シカの頭数は順調に回復し,戦前は900頭に達した.一方で,シカによる農作物への被害が顕著になり,また人身事故も増え,社会問題に発展した.しかし,戦中の混乱によってシカは二度目の乱獲を経験し,終戦の年には79頭にまで減った.

戦後は手厚く保護され,1957年には「奈良のシカ」として天然記念物に指定された.頭数は増加の一途をたどり,この40年ほどは10001200頭の間で推移している.その一方,戦前と同様に農作物への被害が深刻化し,農家が国や市,春日大社,鹿愛護会を裁判に訴えるという事態にまで発展した.近年になり,春日山原始林においてはシカの食害によって,植物の種組成の変化が顕著になり,また後継樹が育っていないことから,本来の森林更新が阻害されていることが明らかになった.シカの保護と管理のありようが今まさに問われている.

 

2.奈良公園のシカの「功」

 

A.奈良公園のシカの価値

本題である奈良公園のシカの功罪について,まず,シカが有する価値という側面から「功」を捉えてみる.価値というからには,ヒトにとって,という留保がつく.そのような価値として,観光資源としての経済的価値,シカがいる風景という景観的価値,神鹿としての宗教的価値,奈良の象徴としての記号的価値,が思い浮かぶ.それぞれの価値の大小は人によって様々であろうが,いずれの価値も否定することはできないと思う.だからこそ,農産物への被害が顕在化しても,手厚く保護されているといえる.

シカの生態系における役割を知ると,人にとっての価値に依存しないシカの「功」が見えてくる.浅茅ケ原や飛火野のシバを主体とした草地は,シカの旺盛な採食によって維持されている.シカは天然の芝刈り機であり,丈が高くなる植物を徹底的に排除する.シバはシカの採食に対し耐性があるため,根絶やしになることはなく,草地の優占種であり続ける.

シカは大量の糞を排泄する.その量は乾燥重量にして年間約80トンと見積もられている.この大量の糞の分解に大きく寄与している生き物が糞虫と呼ばれる食糞性コガネムシである(ミミズの寄与も大きい).糞虫は成虫,幼虫ともに獣の糞を餌としている甲虫である.奈良公園には日本本土に分布する糞虫のおよそ半数に当たる37種が生息している.これほどの糞虫がたかだか数百ヘクタールの区域でみられることは驚きである.

糞虫によって分解された糞は土壌中の微生物によってさらに分解され,最終的には植物が根から吸収できる形にまで分解される.それゆえに奈良公園ではゴルフ場の芝生のように施肥をする必要がない.また糞虫やミミズは土壌に水や空気の流路となる間隙を作り,シバの成長を促進している.

このように奈良公園ではシバ-シカ-糞虫-微生物-シバという循環的関係が成立している.シカが草地の維持にいかに重要な役割を果たしているかがわかる.

 

B.余談1:糞虫≠フンコロガシ

糞虫と聞くと,フンコロガシという言葉を思い起こす人が多いに違いない.フンコロガシは,糞塊から丸い玉を作り,地表を転がして穴に埋めるという習性をもつ糞虫の俗称である.このような習性をもつ糞虫は,日本本土には1種が分布するのみである.この種は奈良公園にも生息しているが,体長は3 mmほどに過ぎず,林床の落ち葉に隠れて生息しているため,よほどのマニアでないと目にすることはない.したがって,糞虫と聞いて,糞虫が糞玉を転がす姿を思い浮かべることは,日本にあっては幻想に過ぎない.フンコロガシは日本ではまず目にすることがないにもかかわらず,フンコロガシが人口に膾炙するのは,やはりファーブル昆虫記の影響が大きいと思われる.

 

C.余談2:シカの学術的価値

シカには,研究者に研究材料を提供するという学術的価値がある.

イラクサは葉や茎に刺毛を備える多年草の植物である.刺毛の中には毒液が含まれており,刺さると激痛が走り,人によっては大きく腫れ,数日間痛みに苦しむ.奈良公園のイラクサは他の地域のイラクサよりも刺毛が著しく多い.種子から栽培しても刺毛の多さは変わらないことから,奈良公園のイラクサの刺毛の多さは遺伝的な形質であるといえ,シカに対する防御として自然淘汰の結果進化した形質であると考えられる.現在,この仮説を検証するため,さまざまな観察,実験が進められている.

 

3.奈良公園のシカの「罪」

 

A.農業被害

次に,奈良公園のシカの功罪の「罪」を,農業被害に焦点をあててみてみる.

1979年,シカによる農作物の被害を受けている奈良公園周辺の農家が,春日大社と奈良の鹿愛護会を相手に損害賠償を求める訴訟を奈良地裁に起こした(第一次鹿害訴訟).原告側は,シカの所有権は春日大社に,占有権は愛護会にあると主張した.一方,被告側は信仰上の理由から大切にしてきただけで,所有権も占有権ももたないと主張し,真っ向から対立した.1983年,裁判所は,春日大社がシカの所有者として国の文化財保護委員会に天然記念物の指定を申請していること,愛護会はシカ寄せ,鹿苑での餌支給,シカの角伐りなどを行なっていることから,春日大社の所有権と愛護会の占有権を認め,被告は原告らに対し損害を賠償するよう,原告全面勝訴の判決を下した.しかし,春日大社と愛護会はこの判決を不服とし,控訴した.さらに,1981年には別の地域の住民が,国と奈良市,春日大社,愛護会の四者を相手どり,損害賠償を求め提訴した(第二次鹿害訴訟).

両訴訟ともに1985年に和解が成立した.その要点は,生息地区を4つに区分し,国が鹿害防止のため奈良県,奈良市,愛護会を指導すること,住民も害を及ぼすシカを捕獲できること,そのために国が奈良県教育委員会に「奈良のシカ」捕獲許可権限を委譲すること,の三点であった.この和解にそって奈良市は鹿害防止として補助金によって防鹿柵を設置したり,捕獲柵による鹿の捕獲・鹿苑への収容を実施したりしている.しかし,目に見える効果は現れていないのが実情である.

 

B.奈良女子大学での被害

シカは奈良女子大学構内にもしばしば入り込んでくる.餌不足が顕著になる冬季には,大学構内に数頭が定住している.これらのシカによる観賞用草木への食害は深刻である.食害を受けないよう樹を柵で囲ったり,草花に網をかけたりしているが,かえって美観を損ねる結果になっている.まさに本末転倒である.

 

C.生態系のバランスを崩す

1000頭ものシカによる植物の大量消費は生態系のバランスを崩しつつある.奈良公園の平坦部を散策しただけでも.シカの食害がもたらす生態系への影響を推認することができる.見過ごせない影響として,シカが好む植物の減少とシカが好まない植物の増加,外来種であるナンキンハゼとナギの分布の拡大,そして林地における後継樹の消失があげられる.これらの影響に着目し,春日山原始林で何が起きているのか,項を改めて記す.

 

4.春日山原始林で今現在起きていること

 

A.春日山原始林

日本の暖温帯には常緑のカシ類やシイ類,タブノキが優占する照葉樹林が成立している.しかし,有史以来,伐採にさらされ,とくに近畿地方においてはまとまった面積で照葉樹林が残っているところはわずかである.春日山原始林はそのなかの一つであり,きわめて貴重な自然林である.そのため,春日山原始林は1956年に国の特別天然記念物に指定され,林内への立ち入りが厳しく制限されている.

 

B.後継樹が育っていない

森林構造がどのように変化するかを調べるために,原始林内に20 m四方の調査区画を1986年に設定し,1997年,2003年にその区画に出現する胸高直径10 cm以上の全樹木の胸高直径が測定された.この調査によると,その17年間で確かに大径木のコジイの本数が増加し,森林が順調に発達しているようにみえる一方,胸高直径1020 cmのコジイやツクバネカシは減少しており,代わってシカが好まないクロバイが増加していた.

この結果は,春日山原始林はカシ類やシイ類の後継樹が乏しく,本来の森林更新が損なわれていることを示唆している.

 

C.シカが好まない樹種が増えている

1986年,原始林内に防鹿柵で囲った区域と囲わない区域で木本実生に対するシカの採食率と木本実生の生存率が調べられた.前者の区画はシカがいなかった場合の林を,後者の区画はシカの採食にされされている林を模している.この調査から,ナンキンハゼとイヌガシはシカの食害を受けにくく,シカの採食にさらされていても生存率が高いこと,逆に,アカメガシワ,タラノキ,サンショウは食害を受けやすく,生存率も低いことがわかった.ヤブムラサキは食害を受けやすいにもかかわらず,生存率が高いという,一見矛盾する結果になった.これは,ヤブムラサキはシカに食べられても,あらたに枝葉を伸ばすことができ,食害に対する耐性があるためと考えられる.

これらの結果は,春日山原始林ではシカの好まない樹種が今後増えてゆくことを示唆している.この予想は残念ながら現実のものとなり,次に述べるようにさらに深刻な事態になっている.

 

D.外来の樹種が侵入し勢力をのばしている

近年になり,春日山原始林において外来種であるナンキンハゼとナギの分布が急速に拡大していることが明らかになった.ナンキンハゼは中国原産の外来種であり,昭和初期に奈良公園に植栽され,近隣に街路樹としても植栽された.ナギは伊豆半島以南の主として海岸沿いの暖地に自生するが,極めてまれな樹木である.奈良公園では御蓋山に純林を形成するほどに普通に見られるが,自生種ではない.800年代に春日大社に献木,植栽されたものが広がったと考えられ,国内外来種とみなされる.これら2種には,シカがまったく食べない,という共通の特徴がある.

ナンキンハゼは,大径木が倒れたあとに形成される林冠が開いた林床,いわゆるギャップに侵入,定着している.一方,ナギは極度に高い耐陰性をもつことから,林冠が閉鎖している林床に侵入,定着している.シカはナンキンハゼとナギをまったく食べないことから,シカの個体数が現状のまま推移すると,これら2種は拡散し続けることになり,原始林の様相は一変すると予想される.実際,原始林下部のイチイガシ林はナギ林へと置き換わっている.

森林に生じるギャップは森林更新の始まりである.しかし,春日山原始林では先にみたように後継樹が育っていないため,ギャップの閉鎖が進まず,むしろギャップが拡大しているのではないか,という疑念がもたれた.そこで,1961年,1999年,2003年に撮影された空中写真をもとにギャップを判読し,個々の面積を算出したところ,個数,面積ともに増加していることがわかった.さらに,これらのギャップの分布図をナンキンハゼの分布図に重ね合わせると,ナンキンハゼがギャップに侵入し,群落を形成しつつあることも確認できた.

 

E.春日山原始林の行く末

以上みてきたように,春日山原始林ではシカの強い採食圧の下,土着の木本実生が定着せず,後継木が育っていないこと,代わりに,シカがまったく食べない外来種のナンキンハゼとナギが侵入し,その拡大が進んでいることがわかった.そこで,春日山原始林の今後の推移を推定したところ,胸高直径30 cm未満の土着広葉樹は350年で,60 cm未満の土着広葉樹は400年でそれぞれ消滅し,以後800年間は60 cm以上の樹木のみが平均2.6本/haの密度で散在するという結果になった.さらに樹木本数でみてみると,その半減期は90年にすぎなかった.

数百年後の出来事に思い馳せることは困難であるにしても,この結果は,数十年単位でみても春日山原始林の土着広葉樹の本数が劇的に減少することを予告している.このままでは春日山原始林の消滅を座して待つことになる.

 

5.おわりに

奈良公園では,天然記念物であるシカが特別天然記念物である春日山原始林に脅威を与えている現状が浮かび上がった.ここでは記さなかったが,増え続けるシカが自然植生の存続の脅していることは,日本各地から報告されている.春日山原始林が存亡の危機にあることは疑いなく,保全対策の実行が急務である.

 

記述にあたっては煩雑さを避けるために出典をいちいち示さなかったが,以下の文献を参考にした.

今森光彦(1985)フンを食べる虫.平凡社

北川尚史(2004)奈良公園の植物.トンボ出版

藤田 和(1997)奈良の鹿年譜.ディア・マイフレンズ

前迫ゆり(編)(2013)世界遺産春日山原始林―照葉樹林とシカをめぐる生態と文化―.ナカニシヤ出版

湯本貴和・松田裕之(編)(2006)世界遺産をシカが喰う―シカと森の生態学.文一総合出版

依光良三(編)(2011)シカと日本の森林.築地書館